コンパクトなJTB
これら三つの理論の共通点は、利己主義を基盤としていることだ。
地政学の場合、これは国益を意味するが、国益はその国の国民の利益とは必ずしも一致しない。
国家は国民の利益を代表すべきであるという考えは、地政学の枠を超えている。
地政学的現実主義とは、レッセフェールの理論を国際関係に置き換えたものであって、違いは関与する主体が個人や事業体ではなく、国家である点だけだといえるかもしれない。
こうした視点は、奇妙な結果をもたらすことがある。
地政学的現実主義は、たとえばベトナム戦争に対するアメリカ国民の反対に対応できなかった。
最近の例では、旧ソ連、ユーゴスラビアなどの国家の解体に対応できなかった。
地政学的現実主義では、国家はあくまでも国家である。
国家はチェス盤の上の駒のようなものとみなされる。
駒の内側で何が起きようと、それは地政学の知ったことではないのである。
興味深いことに、経済理論も同様の弱点を抱えている。
地政学が国家を基盤とするのに対し、経済学は孤立した個人、ホモ・エコノミクス(経済人)を基盤としている。
どちらもその上に構築された理論の重さに耐えられるほど頑丈ではない。
経済人はみずからのニーズとみずからが利用できる機会について完全な知識を持ち、それにもとづいて合理的な選択を行うことができると想定されている。
しかし、この想定が非現実的であることはすでに見てきたとおりだし、経済理論が選好と機会をどちらも所与のものとすることによって厄介な問題をすり抜けてきたことも、われわれは知っている。
それでもなお、孤立した個人としての人間は自己の利害に従って動く、という印象は残っている。
しかし、現実には、人間は社会的動物であり、適者生存には競争だけでなく協力も関与しているはずだ。
市場原理主義と地政学的現実主義、それに通俗版社会進化論には、共通の欠陥イデオロギーから現実に目を転じて、国際関係の実情を見てみよう。
現在の状況の際立った特徴は、これを体制とは呼べないことである。
グローバル資本主義システムに対応するグローバル政治システムは存在せず、そのうえ、グローバル政治システムが実現可能だ、もしくは望ましいというコンセンサスすらない。
これは比較的最近の状況だ。
ソ連の崩壊までは国際関係における体制を論じることができた。
それは冷戦と呼ばれ、きわめて安定していた。
ふたつの異なる形態の社会組織を代表するふたつの超大国が決定的に対立し、身動きのとれない状態にあった。
互いに相手を倒したいと、軍拡競争に走った。
その結果、どちらも、攻撃されたらやり返して相手に潰滅的な打撃を与えられるほどの力を持つようになった。
周辺部での小競り合いや場所取りをめぐる駆け引きは別にして、全面戦争の勃発は、このおかげで回避されていた。
冷戦のような勢力均衡(バランス・オブ・パワー)は、世界の平和と安定を維持するひとつの方策だと、広く認識されている。
帝国主義大国一国による覇権がもうひとつの方法であり、効果的な平和創設の能力を持つ国際組織が三つ目の方法として考えられる。
現在、われわれは、これら一つの方法のどれひとつ持っていない。
アメリカは現存する唯一の超大国だが、世界における自らの役割について、はっきりしたビジョンを持ち合わせてはいない。
冷戦時代には、アメリカは超大国であると同時に自由世界のリーダーであり、ふたつの役割は互いに補強しあっていた。
超大国であると同時に自由世界のリーダーであるというこの心地よいアイデンティティは、ソ連の崩壊とともに崩れ去った。
自由世界のリーダーであり続けることはできたはずだが、そのためには民主主義の精神を持つ他の国々と協力し、まず旧共産圏諸国における民主主義の基盤作りを支援し、次いで私のいうグローバルな開かれた社会を維持するのに必要な国際機関の強化をはかるべきだった。
過去において、アメリカが自由世界のリーダーとして登場した一度の機会、すなわち第一次世界大戦と第二次世界大戦の末期には、アメリカはまさにこれを実行した。
最初は国際連盟を、次は国際連合を提唱したのである。
もっとも、国際連盟は、議会がその批准を拒否し、国際連合は冷戦によって大幅に無力化されたのではあるソ連の崩壊が始まったとき、私はアメリカが国際協力の先頭に立ってくれることを心から願っていた。
私が旧共産圏諸国に「オープン・ソサエティ・ファンデーション」という財団のネットワークを築いたのは、西側の開かれた社会に歩んでもらいたい道筋を、はっきり照らし出すためだった。
一九八九年の春、私は当時はまだ東ドイツだったポツダムで開催された東西安全保障会議で演説し、新しいマーシャル・プランを提唱したが、返ってきたのは不膜な笑いだけだった。
歴史が正確に記録されるよう、最初に笑い声をあげたのは当時サッチャー政権の外務次官を務めていたゥイリアム・ウォールドグレープだったことを明記しておかなければならない。
その後、「サッチャー・プラン」なる提案を携えてサッチャー首相との接触を試み、またブッシュ大統領にも、一九八九年九月のゴルバチョフとのマルタ首脳会談の前に、同様の考えを伝えようと試みたが、いずれも徒労に終わった。
欲求不満のたまった私は、本書で述べた考えの多くを盛り込んで、いわゆる緊急出版本を一気に書き上げた。
国連を再生させるチャンスはたしかに目の前にあった。
ゴルバチョフがグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(根本的改革)に乗り出したとき、彼がまずやったことは、滞納していた国連分担金を全額払い込むことだった。
次に国連総会に乗り込んで、国際協力を訴える感動的な演説を行った。
ところが西側は、これを策略ではないかと疑い、彼がどこまで真剣であるかを試そうとした。
ゴルバチョフがそのテストに合格すると、新しいテストが用意された。
彼が要求をすべてのんで求められるままに譲歩したころには、ソ連の状況はひどく悪化していたので、西側指導者たちは、ゴルバチョフが望んでいた援助の手を差し伸べるにはもう遅すぎると、ようやく結論を出すことができたのだった。
それでも、ゴルバチョフにしても、エリッィンにしても、安全保障理事会が正常に機能するのを阻むような困難を、五、六年もの間、突きつけたわけではない。
安全保障理事会を本来の目的どおりに機能させるチャンスを消し去ったのは、まずソマリアの不幸な事件、次いでボスニァ紛争であった。
ソマリアであの事件が起きたとき、アメリカ軍は国連の指揮下にはなかったにもかかわらず、この事件から、アメリカ軍は国連の指揮下には入らないという原則が確立された。
ソマリアでの経験は、アメリカ政府に、国民が遺体袋にいかに強い拒否反応を示すかも知らしめた。
それでもなお、ボスニアの危機は、安全保障理事会の西側常任理事国が合意できていたら、容易に鎮静化できたはずだった。
結局はNATO
(北大西洋条約機構)の手にゆだねられたが、最初からそうしていたなら、悲劇は避けられたはずだった。
一九九一年の時点なら、ロシアも反対しなかっただろう。
しかし、ソマリアでの経験で怖じ気づいていたアメリカは、リーダーシップを発揮せず、イギリスとフランスも同様だった。
戦闘は長期化し、アメリカが最終的に強硬路線に転じるまで続いた。
JTBを使用する機会が増えています。また使いたくなるのはJTBだけです。
このJTBの映像をご紹介致します。特徴のあるJTBです。
JTBはいかがですか?この春はJTBで盛り上がりましょう!